【運営からのお願い】誰かの名前を呼ぶことについて
みなさん、こんにちは。
ぷらっとチャットの管理人です。
12月からお部屋番の人たちが月2回、しっかりとぷらっとチャットの報告をしていますが、今回は管理人から、利用する皆さんに具体的なお願いがあったので、お部屋番の間に割り込んで書いています。
ぷらっとチャットは匿名のチャットです。誰がいつきても気軽に参加するために「匿名」がとても大切だと私たちは感じています。
一方で、居場所がない、孤立している方たちにとっては、好きな名前を付けて、自分の存在を受け止めてもらう機会にもなります。
いつも同じ名前を使用していると、それぞれ〇〇さんという名前が定着して、そのことで仲間ができたり、存在を認識しあうことにもつながります。それがいいと感じる人がいるのも理解できるのですが、そのことによって「匿名性」の持ち味が少なくなってしまうことを最近はとても心配しています。(もうそれなりの期間継続してやっていることもあるので)
年越しチャットの時にも、馴染の関係ができたり、いつも来る人たち(常連さん)が固定化すると、初めての人が入りにくい空気やプレッシャーなどを感じてしまうことがあることをお伝えしましたが、具体的な対応策がないとなかなか変わらず、続けるにつれ常連感が強くなる様子も感じています。
そこで、スタッフで話し合って具体的な工夫を考えたので、皆さんにお伝えします。
チャットでは特定の個人名を呼びかけることを控えてもらおうと思います。
誰かの名前を呼ぶことは、特定の人との関係性が他の人と違って特別な関係があるように見えてしまい、それを見た人が疎外感を覚える(特に初めて来た人がちょっと入りにくい感じがする)ことがあります。
会話の中でメンションやリプライはチャット機能としてできるので、特定の人に限定せず、会話の中でメンションやリプライをうまく使ってもらえたら、嬉しいです。
また、思いがけず名前を呼ばれた人も実は名指しされて戸惑うこともあります。チャットは戸惑った様子で分かりませんし、もしも嫌だと思っても言いづらいこともあります。
などなど…例を書きましたが、匿名で気楽に初めての人でも参加しやすいチャットであり続けるために、「特定の人の名前を呼ぶ」ということは控えてもらえるようお願いします。
そのような意図で、呼びかけることがあれば削除をさせてもらいますので、ご了承ください。
たくさんの人たちが参加できるチャットが長く続くために、理解と協力をお願いします。
「距離感」を考えてみた
みなさん、こんにちは。2月ブログのお当番が回ってきた、ぷらっとチャットお部屋番のひとりです。
一年で最も寒いといわれる大寒を過ぎて、2月3日は立春でした。心なしか春の気配が近づいてきたような、まだまだ遠いような・・
最近知ったのですが、大寒と立春の間を「冬の土用(どよう)」といい、季節の変わり目に向けて体調を整える期間にあたるそうです。
木の芽時はなにかと不安定になりやすい時期でもあるので、きたる春に備えて身体をいたわりたいと思う今日この頃です。
小話もほどほどに、私がお部屋番としてチャットに参加する中で感じたこと、考えたことを書いてみようかなと思います。
みなさんの何気ない話にほっと癒されたり、自分も助けられたような気持ちになったり、苦しい胸の内に思わず共感してしまったり…その場に居合わせることで私自身もさまざまな思いが巡るのですが、参加者同士の距離の近さに少しドキッとする瞬間があります。
開催の回数を重ねていく中で、よく見かける人に声をかけたり、関係性ができていくことはある意味では自然なことなのかもしれません。
一方で「いろいろな人たちにとっての安全な場」ということを考えてみると、良かれと思っていた距離の近さが実は他の誰かの心理的安全を揺らがせたり、自分たちは楽しい内輪感が逆に誰かのプレッシャーになっていないだろうか…とも感じています。(わが身も振り返りつつ、改めて気づくことですね)
身体的・物理的な距離感は目に見えて分かりやすいですが、心の距離感は、実は把握するのが難しいのかもしれません。
例えば、自分がしてもらって嬉しいことと、相手がしてもらって嬉しいことは必ずしもイコールではないことなどが挙げられます。
チャットを訪れる人の中には、誰かに自分のバウンダリー(=自分と相手の境界線)を侵害された経験からNOを表現することが苦手だったり、内輪感を見ることでつらい思い出の再体験をしてしまう人がいるかもしれません。
前回のブログでは、画面の向こう側にいる人を想像してみることの大切さについて触れられていましたが、お互いのほどよい距離感についても、想像力は大事だなと感じています。
つらつらと最近の思ったことを綴りましたが、今後もみなさんと一緒に試行錯誤しながら、チャットの運営について考えていけたら嬉しいです。
もうしばらく寒さの厳しい日々が続きそうですが、お身体ご自愛下さい。ブログを読んで下さってありがとうございます。
「画面の向こうにいる人」を想像する
みなさんこんにちは。ぷらっとチャットのお部屋番の1人です。
ブログを書くのは初めてなので、とても緊張しています…。
内容としてはあくまで私の主観であり、お部屋番全員がそう思っているとは限らないのですが、私がチャットを見ていて感じることを書かせてもらえたらと思います。
現在のぷらっとチャットは基本的に1日おき、ないし3日に1回くらいのペースで開催しています。
私は結構な頻度でチャットを覗かせてもらっているのですが、見るたびに雰囲気や流れが違うなあと感じます。居る人が変われば雰囲気も変わる、というのはその通りなのですが、逆に言うとよく顔を合わせていそうな人が集まっていたとしても、終始ゆったりと時間が流れる日と、コミュニケーションの齟齬やズレが起きてちょっぴりドキドキする日があったりします。
どちらが正解ということはないですし、なにより、ユーザーさんは特に気になっていないのかも…?と思いつつ、お部屋番としてはつい、このチャットを安全に守りたい気持ちが先立ちます。時にはメッセージの削除や、注意喚起に踏み切ることもあります。でもそれをする時・した後も、なんだかモヤモヤぐるぐる、「これでよかったかな…」と迷い続けることも多いです。ルールとマナーで示している内容に沿った判断だとしても、自信をもって(?)判断できることのほうが少ないです。
どうしてこんなに迷うのだろう?と考えてみると、それはきっと、いろんな種類・いろんな立場への想像力をフル動員しているからかな…と思います。
(削除するものに限らずですが)「この発言を読んだ人はどう感じるだろうか…」という受け取り手への想像、「もし〇〇な背景を持った人が読んでいたら…」というもしもの想像、そしてメッセージを投稿した人のコンディションや意図、「それを言わずにはいられない気持ち」等々…まで想像していくと、どんどん判断は複雑になっていきます。その場で全て発動できないことも当然あります…。
ただ、言い方を変えれば、「普段は言いづらい(ともすれば批判されてしまうかもしれない)、言える場がないようなこと」ことを場としてタブー視しないからこそ、明確なNGの線引きはできないと言えます。そしてNGがはっきりしていないからこそ、ユーザーさん同士、そしてチームお部屋番、チャットに関わる1人1人が、チャットにいる「誰か」への想像力をなくさないことが大切なのかな、と私は思っています。誰にもはっきり線を引けないからこそ難しい、けれど線を引かない分、社会の空気や人間関係、「常識」みたいなものに縛られず、みんなで1回1回ほどよい塩梅を探っていけるようなイメージです。
チャットは公共の場なので、「なんでも全部OK!」とはいきませんが、社会の中で不当に抑制される声を発することができたり、白黒つけずに分かち合えたり、ネガティブな感情もひっくるめて「自分」として話せたり…それぞれがそれぞれのまま過ごしながらの「公共」を、ユーザーさんたちと一緒に作っていけたらいいなあと感じています。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。